「ハゲワシと少女」~ジャーナリズムのエゴ

写真は真実を切り取るものですが、ときにカメラを扱う者の意図や真相を超えて伝わってしまうことがあります。今回は報道やジャーナリズムの在り方について考えていきたいと思います。「ハゲワシと少女」という写真とそれを撮ったケビン・カーターの運命についてご紹介します。

一枚の写真が一人の人生を変えてしまった

ジャーナリズムという言葉で、ふと思い出してしまう写真がある。

最近の日本ではメディアの過剰報道が増加しており、勘違いされた憶測による「ジャーナリズム」を名目に、十人十色の「真実」が、審議にかけられることもなく流されている

カーター・カーター 「ハゲワシと少女」

写真「ハゲワシと少女」。

1994年ピュ―リッツア賞を受賞した南アフリカの報道写真家ケビン・カーターの作品だ。

内戦と干ばつのひどいスーダンに赴いたカーターが、餓死寸前の少女をハゲワシが狙っているという場面に偶然に出会い、それを写真に撮りスーダンにおかれている「飢餓」を訴えた。

スーダンの内争と干ばつによる飢餓の悲惨さを伝えたこの一枚は、素晴らしい反面、衝撃的すぎる内容の写真。そして、カーターは、写真が新聞等で発表されてから「何故、写真を撮ることより、少女を助けることを選べなかったのか」と、世界中から非難されてしまう。

「報道か人命か」。

明らかに「報道」を選んだカーターは、素晴らしい写真を撮ったにも関わらず、糾弾される。

良心との葛藤の末、ピューリッツァー賞を受賞した2ヶ月後、彼は自ら命を絶ってしまう。薬物依存、自我忘失の末の自殺である。

カーターが選ぶべきはなんだったのか

カーターは、撮影を止め、少女を助けるべきだったのか。

自分は、この少女を助けるべきだったのかもしれないとも思うが、例えそうしていたとしても、スーダンの飢餓を救えるわけではない。

確かに一人の少女の命は助かったのかもしれないが、毎日何人もの子供が飢餓や病気で命を奪われているというスーダンの現実や、根本的な問題が解決されるわけではない。

むしろ、カーターの撮った一枚が、よくも悪くも人の心を動かし、スーダンに起きている悲惨な現状に興味を抱かせ、起きている現実を多くの人に伝えた事実のほうに、重要さを感じる。

この写真を見た人間が「少女が可哀相」と思い、そこで「カメラマンは写真を撮るより、命を救うことを選ばなかったのか」という感情をもつのも判らなくはないが。

この写真がなければ、スーダンに起きている悲惨さを、それほどまで深く感じることは難しかっただろう。

だが、よくも悪くも、写真はたくさんの人々の心を動かした。

それを人は「感動」という。

負の感情、プラスの感情でも、心を揺さぶったのは確かなのだ。

その功績は、讃えられるべきで、糾弾されるものではない。

この少女に限らず、スーダンでは毎日多くの子供たちが死んでいく。それを見たカーターは、独りの少女を助けることも大切だが、スーダンの「真実」を撮り世界に伝えるということに、ジャーナリストとして選んだのだろう。

ジャーナリストとして、当然の選択だと私は思う。

逆に言えばそれがカーターがジャーナリストとして出来る最善の方法であり、それ以外に、何が出来たというのだろう。

時折カメラマンは、絶好の被写体に出会ったとき、我を忘れ夢中でシャッターを切ってしまうらしい。カーターも、そんなカメラマンとしての本能が動いてしまっただけなのかもしれないが、それは本人にしかわからない。

カーターは少女を見殺しにしたのか

ケビン・カーター(手前)

確たる証拠がないので、語尾は「・・・らしい」になってしまうけれど、当時のスーダンでは、毎日10~15人の子供が餓死等で亡くなっており、カーターもやり切れない気持ちや絶望感を抱えながら町をさ迷っていた。そのとき、この場面に偶然に出会い、夢中でシャッターを切ったらしい。

カーターがこの写真を撮ったときは、少女の母親は配給の食糧を受け取るために少女を腕から離した、ほんの短い時間であったとか。カーターも、写真を撮った後ハゲワシを追い払い少女が歩いて母親のもとへいくのをちゃんと見届けた。それから、木の側に逃げるように歩み寄り、煙草をふかして泣き続けたという。

世界に糾弾されるまでもなく、カーターは既に、自分自身を責め、やり切れない絶望や、良心との葛藤を最初からもっていたのだろうか。

「カメラマンとしてのエゴ・任務」。「伝える」ということしかできない、非力さ等。

しかし、このエピソードに出てくる、側にいた少女の母親や配給を配る車が写真の片隅に少しでも姿をだしていれば、写真のもつ衝撃度や意味合いは、かなり変わってしまっていたと思う。

だとすれば、この「ハゲワシに狙われる餓死寸前の独りの少女」は、カーターが意図的にアングルを駆使して「演出した真実」であるともいえる。

だが、結果的にスーダンの悲惨さは、この写真により多くの人に伝わり、飢餓で死んでいく子供たちの存在を強くアピールとなったのは紛れもない真実であった。

命の尊さを訴えた、カーターが、自ら命を絶ったのも、なんともいえない話であるが。

日本にジャーナリズムは存在するのか

ジャーナリズムにおける「真実」って、なんだろう。

と考えるとき、この写真とカーターを思い出してしまう。

今の日本の報道のあり方は、単なる野次馬にすぎず、捏造と憶測によって面白おかしく組み立てられているの感じざるを得ない。

報道する側が、見る者が、ある一定の方向へ視点が向けられるように「扇動」してはいないだろうか?

少なくとも、私は、今の報道にその「扇動」に過ぎないと感じてしまうのだ。

それは、ジャーナリストの視点として、正しいことなのだろうか。

日本のジャーナリズムは、いったい、どこにいってしまったのだろうか。

そろそろ、面白く煽ったバラエティ・ショウではなく、客観的で平等な視点から作られた普通のニュースが流されることを願っている。

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